言語化ブームはクソだが、言語化はした方が良い

現代社会は言語化に毒されている。インターネットやビジネス書では言語化が大事だと書かれ、知識人の高い言語化能力が持て囃される。言語化能力の高さが知能の高さであるかのように考えられており、例えば面接においては淀みない会話ができる人ほど評価の高い傾向にある。あまつさえ、言語化能力の低い人を揶揄するような風潮すらあるのだが、本当に言語化や言語化能力はそれほど価値のあるものなのだろうか。

言語化は万能ではない

曖昧な概念や思考を言葉に起こすことが言語化であり、言語化によって客観性を持たせることが、言語の支配力が強い現代社会においては重要だとされている。もちろん相手に伝えるという点だけで見れば言語化は重要で価値のあることだが、実際のところは言語化する必要性のないケースも多い。言語化をもう少し詳しく言語化すると、眼鏡を外した時のように輪郭や詳細がぼやけている、概念や思考という物体を手本に、言語という積み木を使ってその物体をできる限り模倣しようとするプロセスのことだ。つまり言語化した文章はあくまで模倣でしかないというだけでなく、そもそも手本の物体そのものの輪郭や詳細はぼやけているため、どれほどの精度で模倣できたのかすら分からない。かなりの精度で模倣できてそうなものに対して、言語化が上手いと言っているに過ぎず、言語化は決して万能ではない。全ての事象を言語に落とし込めると考えるのは、「デキるビジネスマン」の傲慢だろう。実際例えば、プロや職人の勘は言語化できないものだ。言語化できるということは客観性を持つということであり、逆説的だがそれはもはや勘ではない。他の例としては、あまりに美しい風景を見た時の感動は言語化する必要がなく、言語化せず客観性を持たせないことにより陳腐化や劣化を防ぎ、ありのままの感動の美しさを保てるのだ。

言語化しなければならない、言語化できる人は能力が高いという現代社会の風潮は、時に暴力的にすらなり得る。というのも人間の特性として、言葉で思考するテキストシンカーと、映像で思考するビジュアルシンカーというものがあるからだ。テキストシンカーは思考をそのまま文字や声にするだけで言語化可能だが、ビジュアルシンカーは思考を文字に変換するというプロセスが必要なため、現代はテキストシンカーに有利で、ビジュアルシンカーには不利な社会と言える。これらの特性が先天的なのか後天的なのかは分からないが、自分でコントロール可能な域を出ていることは間違いないにもかからわず、言語化の上手さが優秀さと結びついている現代の価値観は暴力そのものだという見方ができる。そもそもどちらが本質的に優れているかというのは判断できず、テキストシンカーでスラスラ喋れるから優秀、というのはあまりに短絡的だ。そういった意味でも言語化は万能ではない。ここで誤解してはいけないのは、まずテキストシンカーとビジュアルシンカーという特性は、完全に区別できるものではなくグラデーションであり、両方の特性を持っている場合が多いということだ。どちらの特性がより強いかということでしかない。次に、自分が仮にビジュアルシンカーと思われる場合であっても、それを言語化放棄の免罪符にしてはならない。現代社会の多くのケースでは言語が重視されているというのは、少なくともすぐには変えられない事実なのだから、個人は最大限の努力を以って言語化能力を鍛え、社会に適応する姿勢を見せるべきである。ビジュアルシンカーに配慮すべきというのはテキストシンカーが言うべきことであり、ビジュアルシンカーが言うべきことではない。加えて、テキストシンカーとビジュアルシンカーのどちらの特性がより強いのかは、極端な場合を除いて分かりにくいこともあるため、ビジュアルシンカーを自認しているが、実際はテキストシンカーの特性の方が強く、言語化が苦手なのは単なる努力不足であるというケースも考えられる。自認ビジュアルシンカーを逃げの言い訳に使ってはならない。

言語化はした方が良い

言語化能力が社会的評価の1つの軸になっている現状は好ましくないが、自分の考えを言語化する習慣はあった方が良いと私は考えている。面接や営業で有利になるからではなく、言語化こそが自分を自分たらしめるからだ。現代ではSNSによって、他人の言語化を目にする機会が多い。例えば映画に関する感想・考察ツイートを目にしたとして、自分も同じようなことを思っていた場合、「この人が自分の考えていたことを代弁してくれた」と感じるだろう。しかしそれは本当に自分の考えていたことなのだろうか。先ほどの例えを再度用いるが、言語化前の自分の感想は、輪郭がはっきりしていない物体であり、目にした感想ツイートは、他人が積み木で積み上げたものだ。後者が前者に似ているように見えるため、代弁してくれたように感じるだけであり、自分と相手で持っている積み木の数や形、色が違うのだから、本来自分が積み上げる予定だったものとは似て非なるもののはずである。ここで、言語化が不完全な模倣に過ぎないのなら、誰がやっても同じなのではないかと思う人もいるだろう。確かに自分の感想を言語化しようとしたところで、特に感情は言葉より先にあるのだから、完璧に言葉で言い表すことはできない。しかし他人の積み木に頼った瞬間、本来自分が積み上げるはずだったものは存在の機会を永遠に失う。そして他人が積み上げたものに便乗し続けていると、自分の思考が他者に上書きされ続け、最終的に自分の思考を全て失った死人同然の存在と成り下がってしまう。SNSによって自分の思考を侵食されがちな現代だからこそ、自らの言語化によって自分という存在を確立することが重要なのではないだろうか。