人生が好転しない理由は運不足か、努力不足か

人生とは人が一生をかけて取り組む課題だ。一般的に理想とされている、もしくは自分が理想だと定義している人生を歩みたいと人は思い、日々を過ごす。しかし全員が理想通りの人生を歩めるわけではなく、理想とはかけ離れた人生を歩んでしまう人も多い。そして理想通りの人生を歩めている人は、努力さえすれば人生をより良いものにできると言い、歩めていない人は、人生は運で決まってしまうと言う。この話題は現代社会において最も根源的な欲求の1つ、金銭が根幹にあるケースが多いことも相まって、両者とも譲歩することはないが、実際のところ人生はそのように極端なものなのだろうか。

人生は運に左右される

人生は運要素が強く、人生の土台は運でできている。かのイーロン・マスクであっても、文明とは程遠い部族で生まれていれば、父親がエンジニアでなければ、世界一の資産家になっていなかったかもしれない。彼の例は極端すぎるとしても、一般的に富裕層、中間層、貧困層のどこに生まれるかによって、人生経験や人格形成、教育の質、生涯年収などに影響があるのは想像に難くないだろう。例えば東京の高学歴は、自分のステータスを自分の努力によるものだと思っているが、実際は幼少期から知育にコストをかけ、教育を受けさせたり高額な塾や予備校に入れたりできるほどお金に余裕のある親によるところが大きい。もちろん本人の努力を否定するものではないが、その努力は、いわゆる親ガチャ運という土台があるからこそ成り立っているのだ。

他にも、親の人格が破綻しているせいで健全な心身が育たなかった人や、発達障害などの障害を負って生まれた人が、その後の人生で多大な苦労をしている場合、運の悪さがその苦難の大きな要因になっていると言えるだろう。

現代ではSNSによって、自分より運の良い人を大量に観測できるだけでなく、子供でもゲームへの課金やスマホのグレードなど、親の収入を意識してしまう機会が多いことにより、実際のところは中流階級以上だとしても、自分の運が悪いという認識を持ちやすいのではないか。さらに自分と同じように不遇な環境にいると思われる人が発信する社会への恨み節や、恵まれていそうな人が不遇な人を揶揄したり煽ったりする投稿ばかりを目にすることで、運の悪さと社会への呪いが増幅されやすくもある。こういった状況もあり、親ガチャをはじめとする運要素に対して不満を抱く人が増えているのではないか。余談だが、これが現代人の生きづらさの一因になっていると私は考えている。劣等感やコンプレックスの1つもない人は殆どいない一方で、SNSはそれらを執拗につついてくるからだ。しかもその劣等感やコンプレックスは本来抱く必要性がなく、SNSがなければ抱くことのなかったものである始末。SNSは現代人の精神を不可逆な壊死に誘っているのだ。

話が逸れたが、こうした運要素への不満に対し、親ガチャ運が悪くても成功した事例は存在するという反論はありがちだろう。確かに社長の4割弱は高卒だとされていて、真偽不明とはいえSNSでは、極貧家庭から医学部に進学したというような例を見かける。つまり貧困層は必ずしも貧困層を再生産するわけではなく、本人の努力によって軌道修正が十分に可能であるというわけだ。一見説得力のありそうな論だが、典型的な生存者バイアスだと考えられる。というのも、データによって数値の差はあるが、高卒の生涯年収は大卒のそれよりも5,000万円も低く、高卒を貧困層出身だとすると、統計的に貧困層は不利だと言えるだろうし、貧困は連鎖することを示す論文もあるのだ。心身が成長し終わる前、親のコントロール下から抜け出す前の高校卒業時点で人生が決まってしまうのであれば、人生は運であるということを否定するのは難しいだろう。

いつまで運のせいにしているのか

ネット上では、運が悪いせいでいくら努力しても意味がなく、低所得者になってしまっているという考えを持った大人がいて、恵まれた人を攻撃する傾向にあるのに対し、確かに人生は運によって左右されるということに間違いはない一方で、同時に、いつまで運のせいにしているのかとも私は思う。先にも述べたように、あらゆる意味で自立が難しい高校卒業時点で本当に人生が決まってしまうのであればそれも仕方がないが、実際はそれ以降での軌道修正が可能なケースが多いのではないか。特に現代ではインターネットによって稼ぎ方が多様化し、ブログブーム、プログラミングブーム、YouTubeバブルのように稼ぐチャンスは幾度となく巡っているし、クラウドソーシングを利用して堅実に稼ぐ方法もある。本業で疲れたことを言い訳にして、スマホのスクリーンタイムを積み重ね、ドーパミン漬けになる暇があるのなら、お金を稼ぐ暇もあるはずである。自分の現状を、コントロールできない外部の要素のせいにするのは楽ではあるが、そのような他責思考では何も変わらない上に、自立した大人の思考としてはいささか情けないだろう。自立前であれば運のせいにできるが、自立後は残念ながら自身の努力不足のせいである。

ここで「元々の才能がないと努力しても意味がない」という反論があるだろうが、多くの場合、そもそも努力というものを理解できていないのではなかろうか。このような反論をする人には2種類あると私は考えていて、1つは人生で一切の努力をせず、やらない言い訳をしているような人、もう1つは「努力」をしたことがあるけれども、実らなかった経験を持っている人だ。前者は論外である。後者に関しては理解の余地はあるが、果たしてそれは努力だったのかということは吟味のしがいがある。よく「恵まれた人は恵まれていない人の解像度が低い。だから努力でどうにでもなると思っている」と言われ、それは全くその通りだが、逆もまた然りである。努力をしてこなかった人、結果を出せなかった人は、努力によって結果を出した人の解像度が低く、つまりどのようなものを努力と呼ぶのかを分かっておらず、努力の基準を満たしていないものを努力と呼んでいることが多い。例えば高校3年間で毎日1時間ずつ勉強したのに東大に受からなかった人がいるとして、本人は努力したと思っていても、残念ながらそれは努力ではない。正確に言えば、東大を目指している人の努力ではない。東大生になるような人はもっと勉強している。他の例で言えば、1日10袋のお菓子を食べている人がダイエットのために1日5袋に減らしたとして、本人からすれば立派な「努力」だし、健康にも少なからず効果があるだろうが、ダイエットという観点から見れば努力とは言えない。このように努力の解像度が低いせいで、言い換えれば、自分と同じ目標を達成した他者の努力量が見えていないせいで、自分の行動が努力の基準に満たないことに気づけておらず、運のせいにしてしまっているということだ。

努力とは何なのか

難しいのは、他者の努力量を目視することはできない上に、仮に目視できたとしても、必ずしもその努力量で自分が成功できるわけではないということだ。1日3時間の勉強で合格できる人がいれば、5時間で何とか合格できる人もいる。お菓子をいくら食べても太らない人がいれば、1袋食べるだけで太る人もいる。それに同じ3時間の勉強でも、3時間集中した人と、1時間しか集中していない人がいるし、子袋のお菓子を1袋だとカウントする人がいれば、ビッグサイズを1袋だとカウントする人もいるのだ。さらに前提条件の差異も問題となる。高3時点で中学の内容を理解していない人が1日3時間の勉強で間に合うはずがないし、朝昼晩にLサイズのピザを1人で食べているのであれば、お菓子の量がどうあれダイエットに成功することはない。つまり努力を定量的に測るのは難しく、単なる自己申告でしかないということだ。

ではどのようにして結果を出せば良いのか。私見では、結果を出せなかった「努力」は自己満足であり、結果が出て初めて努力に昇華するため、それまで行動し続ける他ない。結果を出すまでに必要な努力量が分からない以上、それ以外の方法はないだろう。短期的な「努力」、一度の「努力」で結果が出ることを望むのではなく、長期的に取り組むことが必要だ。この「長期的」の期間が人によって異なることを含め、人生は運に左右されることに間違いはないが、殆どの場合、運が人生の全てを決定するわけではなく、億万長者のような外れ値を狙っているのではない限り、十分で正しい努力による介入の余地が人生にはあると私は考えている。「努力」とはサイコロを振ることだとすると、人によって持っているサイコロが違うとはいえ、如何にして当たりの目の数を増やすか、如何にして振る回数を増やすかが重要なのだ。人生が運で決まると思っているならば、今一度、自分のサイコロの履歴を見直してみると良い。