教養の勘違いと知識の無価値さ

Twitterを見ていると、単なる知識という意味で教養という言葉が使われている場面を度々目にする。「教養がないとこうなる」「この人は教養がない」というように、Twitterのおすすめ欄の悪辣さも相まって、知識のない人を揶揄するネガティブな文脈で語られることが多い。確かに簡単な漢字を読めなかったり四則演算ができなかったりする人や、誰でも知っているべきである事柄を知らない人に対して、教養がない人というレッテルを貼るのは自然なことのように思えるがその一方で、初歩的な能力や単なる知識がないこと自体を教養不足だとするのは誤っていると私は考える。

教養は単なる能力や知識ではない

インターネットで人気のコンテンツの1つに、知識人と呼ばれるような人が知識のない人を論破する、というものがある。自分と何の関係もない他人がいじめられている様を安全圏から見るのは、簡単に優越感を得ることのできる最上の娯楽だ。それが無料ともなれば、群がる人が多いのも納得できる。そういったコンテンツに感化されてか、当事者として他者を論破しようと試みる人が大量発生しているのは言うまでもない。Twitterを見れば、罵倒から始まり、強い口調で相手を罵るツイートばかりが目に入る。そういった人は自分のことを教養のある人だと位置づけ、相手のことを教養のない人だと見下しているが、そのような行為こそ教養の無さの表れであると言わざるを得ない。

教養とは、能力や知識が備わっていることではなく、それらの使い方の上手さである。言い換えれば、能力や知識を基に、正しい推論を立てたり課題を解決したりといった思考能力のことだ。学問的なことだけでなく、人とどのように接するか、どのような話題を選択するか、などもこれに含まれる。私たちは日々の人生において無数の選択や課題に直面しているため、人生を望む方向に導くために教養は必須と言えるだろう。しかし一部の人は、知識の量こそが教養だと勘違いをしているだけに留まらず、加害の道具として知識を利用しているというわけだ。

そもそも、多くの知識を持っていること自体は誇れるようなものではない。人が一生で得られる知識の量はたかが知れていて、大海原に対する一滴の水のようなものだ。知識人としてメディアに出演しているような人の知識量も、学校に行かずにまともな仕事をしていない人の知識量も、全ての知識を網羅する「悪魔」から見れば大差ない。現代風に言うなら、AIに比べれば、知識人も無知である。加えて1分野に特化した専門家が、その分野に数十年の人生を費やしていることを考えれば、知識人が持つ広く浅い知識の、もしくは一般人が持つ趣味程度の知識の、知識としての価値は低いということが分かる。つまり知識人は、実際には大した量の知識を持たず、持っている知識も薄いのだ。

しかしこれは知識の蓄積が無意味だということではない。知識がなければ思考できないため、知識の蓄積は教養の必要条件と言えよう。東京大学の1、2年生は教養学部として幅広い学問を修めることになるが、これは単なる知識人になるためではなく、教養人になるための教育だ。そして私見では、東京大学に限らず大学全般、そして大学以前の教育は、教養を育むためである。私は一般的な人より勉学に励んだ学生時代を送った自覚があるが、勉学から離れて久しい今では、学んできた多くのこと、特に暗記に属するようなことは忘れている。しかし思考方法に関しては忘れていない。例えば地理の用語は忘れてしまっている一方で、資料の読み取り能力は衰えておらず、むしろ強化されていると思えるほどだ。これに関連して、私は大学3年生の時に国際経済学という講義を受けたのだが、その教授は「卒業する頃にはどうせ忘れるだろうから、考え方を身に付ければ良い」というようなことを言っていて、まさに私が考える通りである。

知識は崇高なものではない

先に少し触れたように、一般的に知識と呼ばれるものは全く大したものではない。専門家の持つ体系化された知識であれば価値があると言えるが、一般人が持つ専門外の知識、特にYouTubeで聞きかじった程度の広く薄い知識は、雑学と呼ぶ方が相応しい。つまり知識人や、知識を振りかざしてSNSで講釈を垂れているような人の殆どは、雑学人というわけだ。(これ以降も、雑学を含めて、知識という言葉を使うことにする)

それを勘違いして知識を暴力的に使っている、知識はあるが教養のない人は、人によって興味の方向が違うことと、知識へのアクセスは生まれによってある程度決まってしまうことを知るべきだ。彼らが講釈を垂れて衒学的に振る舞うことができるのは、たまたま自分が知っていて相手が知らなかったからであり、反対に自分が知らないことに関してはマウントを取られる側になる可能性があると自覚しなければならない。さらに言えば、自分の知っていることを常識として認識し、マウントを取るために用いているに過ぎない。自分の狭い知見が全てだと勘違いしてしまっているということだ。次に、彼らが知識を少なからず得られているのは、生まれで恵まれているからである可能性が高い。生まれと学歴が相関するのと同じようなものだ。つまり知識へアクセスできる導線が整っていたり、アクセスしようと思える教育を施されたりしたという偶然性により、知識人を自負できているだけである。これらを肝に銘じておけば、恥知らずにも衒学的に振る舞うようなことはしなくなるだろう。

加えて、相手を論破することが勝ちであるという風潮そのものが暴力的であり、望ましいことではないと私は考えている。そもそも相手を言い負かすだけであればAIで事足りていて、AIの回答のスクリーンショットを貼るだけで良い。単なる知識という点で言えば、人はAIの下位互換であることが多いため、わざわざ人が人を論破する必要などない。人が議論をするのは合意形成のためであり、論破には何の価値もないのだ。このような勘違いを生んでしまったのはTwitterやYouTubeの責任であろう。尤も、Twitter上での議論に意味はあるかで述べているように、Twitter上での議論は無意味なのだが。

教養の身に付け方

知識が何たるかを勘違いし、誤った使い方をしてしまっている人が多いが、それを自覚して正すことで、教養人に一歩近づけるだろう。ではこれ以外に何をすれば教養人になれるのかだが、教養人を目指す必要はないというのが私の考えだ。思考を続け、教養人であろうともがく限り、その時点で教養のある行為だと言える。しかし同時に教養人として極まっているわけではない。人生が続く限り、思考は続く。人生において教養は大切だが、教養人という称号自体に意味はないのだ。

ここで考えたいのは、思考の精度、教養の度合いだ。思考そのものが教養であるとはいえ、拙劣な思考に意味はないのではないかと考えるのは自然な発想と言える。確かに明らかに誤った思考で論を組み立てたとして、それは教養があるということにはなりそうにない。しかし私の考えでは、反対意見を受けた際、それを精査して受け入れる、もしくは拒絶する判断を下せることが教養である。思考するための知識がないのであればそれを自覚し、感情任せに人を攻撃しないことが、教養人であるかどうかはともかく、教養のある行為であろう。繰り返しになるが、教養人かどうかに拘るのではなく、教養人であろうとする態度が重要だ。知識を基にした綿密な思考ができるに越したことはないが、拙劣な思考は教養ではないなどと、敷居を上げる必要はない。教養は知識人の特権ではないのだ。