学歴は本人の努力量だけでなく、親やその他環境によって左右され、さらに日本においては18歳という早い段階で決定される一方で、現代人としての価値指標の1つである年収に繋がるという、非常にシビアな物差しだ。そのため一部の親は、我が子を高学歴にしようとして幼児教育を受けさせ、進学塾に入れて中高一貫の進学校を受験させる。当の子供も、親や塾から学歴の重要性を刷り込まされ、1つでも高い学歴を手に入れようと奮闘する。私見では、学歴は低いより高い方が便利なことが多いため、学歴至上主義自体に異論はないが、それを強く信じすぎている人や流布するような人が散見されることには警鐘を鳴らしたい。
受験には一定以上の才能が必要
小学生の頃に進学塾に通い、日本でトップレベルの中高一貫校に合格し、その後一橋大学に入学、卒業した私個人の意見にはなるが、中学受験や大学受験は10代という発展途上の時期に行われるため、才能の影響が大きく、才能のない人は成果を出しにくい。尤も、これが先天的なものなのか、それとも幼児教育の成果といった後天的な賜物なのかは判別できないが、どちらにせよ子供にとってはコントロールできない領域のことであるため、才能と言ってしまって差し支えないだろう。
さて、私がこのような考えに至ったのは、あからさまな格差をこの目で見てきたからだ。小学4年生の頃、私と同じ時期に塾に入り、同じ授業を受けていた他の受講生は、毎週行われるテストでただの一度も私より高い点数を取ることがなかった。私は塾の授業と宿題以外で勉学に時間を割くことはなかったため、授業への集中度合も含め、才能の差であると判断せざるを得ない。中学では、常にE判定で、運だけで合格したと自他ともに認めていた友人は、どれだけ勉学に励んでもほぼ最下位の成績だった。私もその友人も寮生活だったため、彼がどれほど励んでいたかをある程度知っているのだが、それでも埋められない差があったのだ。片やテスト前の10分の勉強だけで90点を取るような友人もいた。大学受験においては、私は高校3年生の9月から勉強を始め、始めたと言っても毎日2時間程度かけて行う数学と英語の予習(次の授業の範囲を予習するのが宿題のような扱いだったため、これまでも変わらずしてきた)が主であり、就寝時間まで余裕があれば、唯一自分で購入した数学の問題集を解くか、英単語や世界史の暗記を進めるか、という程度だった。授業でセンター試験や2次試験の対策をしてくれる高校だったとはいえ、それ以外の自主的な勉強をしなかった科目もある。それでも一橋大学を第一志望にする4人の中で唯一合格した。
このように、一個人の視点とはいえ、小中高通して、絶望的とも言えるほどの才能の差が見られる。ここで私が言いたいのは、過剰な学歴至上主義は身を滅ぼす可能性があるということだ。才能のない子供やその親が学歴至上主義に染まってしまうと、実りのない時間を過ごしてしまい、苦痛と後悔しか残らないということになりかねない。東大に受かる人は受かるし、ギリギリ手が届く人もいる一方で、受からない人は受からないという残酷な現実を認識する方が幸せになれるのではないかと私は考える。
暴走する学歴至上主義
過剰な学歴至上主義を推奨しない他の理由としては、実社会とかけ離れている思想だからというのが挙げられる。学歴至上主義を深く信奉している人は、「学歴が人間の価値」「東大以外に価値はない」「この大学よりあの大学の方が高学歴」「MARCHはFラン」というように、高学歴への圧倒的なこだわりを持っているが、一般的な企業において大学名で待遇が変わることはなく、学歴フィルターのある企業であってもMARCHレベルであれば引っかからないため、大学間の細かな序列に意味はない。転職の際には学歴より実務経験や実績が重視される傾向にあることや、既卒は卒業後3年以内を指すケースが多いことを考えると、学歴の消費期限は短く、人生を通して役立つものでもない。加えて、企業に入ったり研究職に就いたりした後は、個人の視点でも学歴より実績を誇るようになるものである。
自分を奮い立たせるための過剰な学歴至上主義であれば、それでも危険性はあるとはいえ、まだ理解できるが、多くの場合、他者に向けて放つ悪意となっているのも問題だ。容姿や人種といった生まれつきの特徴による差別が倫理的に許されないように、才能の影響が大きい学歴による差別もするべきではないと私は考えている。こうした差別が広がることで、10代の若者が精神にダメージを負ってしまう可能性があるだろう。10代の若者のアイデンティティとなるものは学歴か部活くらいしかないという状況で勉学に励み大学に合格したにもかかわらず、過剰な学歴至上主義によってその努力を否定、しかも1人に否定されるのではなく、ネットという大海原から否定されてしまうと、自分の全てを否定されたかのように感じてしまうのも無理はない。しかも大抵の場合MARCHのような、否定される謂れのない、上の下くらいの大学が標的になることが多く、才能の問題や社会の実態と反することも相まって、非常に悪質と言える。
なぜこのように学歴至上主義が暴走するのかだが、MARCHから東大以外の大学は認識すらされていないからというのもあるだろうし、私大は受験科目が少ない関係上、低く見積もられやすいからというのもあるだろう。また、なんとなくそのような雰囲気が作られている、というのも考えられる。私の高校では、MARCHなどの私大を馬鹿にする発言をする人はいなかったが、学年の9割は有名国立大学を第一志望にしていて、今まで勉強を全くしてこなかった残りの1割がMARCHや早慶を第一志望にしていた。つまり私大は妥協の選択肢か滑り止めという雰囲気がなんとなくあったということ(鶏が先か卵が先かは分からないが)であり、ネットでも同じような状況なのかもしれない。
学歴フィルターの是非
過剰な学歴至上主義に否定的なのであれば、実質的に大学を順位付けしている学歴フィルターも否定すべきだという意見があるが、的を射ていない意見だと私は考えている。
人間に優劣はあるのだ。再三述べているように、自分ではコントロールできない要素によるところが大きいが、それでも優劣ができてしまっていることは事実であり、学歴はその優劣に客観性を持たせただけに過ぎない。さらに言えば、10代は発展途上の時期とはいえ、18歳時点で優秀ではない人がその後の人生で急に優秀になることは考えにくいため、学歴は個人の優秀さの試金石になる。
過剰な学歴至上主義の問題は、学歴というものが運要素に大きく左右されること、そして高学歴の椅子の数は決まっているため高学歴になれない人は必ず存在するということに気づかず、しばしば学歴フィルターに引っかからない領域で、過剰に学歴を求めたり特定の大学を貶めたりしていることであり、学歴フィルターとは全く違う話と言える。過剰な学歴至上主義は社会の実情とも乖離していて何の意味もなく、たまたま才能があり優秀になれた人が快感を得るためだけに行っている差別なのだ。優秀さは他者を見下すためにあるのではない。
加えて言うなら、職業というのは、優劣によって配置されるべきものである。東大卒の人が高度な知的労働ではなく単純作業に従事するのは社会の損失だ。つまり高度な知的労働を行う企業が優秀な人を欲し、その際に学歴という客観的な指標を利用するというのは無駄が少なく望ましいことと言える。学歴フィルターに引っかかる大学にも優秀な人はいると反論があるだろうが、客観的な指標である学歴以上の優秀さを示すことのできる大学生がどれほどいるのかということを考えると、企業が採用コストの面から、優秀な人が1人しかいない集合に網を仕掛けるのではなく、優秀な人が大量にいるであろう東大生の集合に網を仕掛けるのは合理的だろう。企業はボランティアではないため、高学歴という、優秀さの客観的な証明を獲得できなかった自称優秀な人を集めて1人1人事情を聴くというようなことはしないのだ。
学歴の格差はなくせるのか
学歴は努力だけでなく才能にも左右されるため、格差をなくすことはできない。優秀とされる人の遺伝子を使って工場で赤子を生産し、国が全員に同一の教育を施すという政策を行えば可能性はあるかもしれないが、同一の夫婦から生まれ、教育を施される前の赤子でも明らかに特性が異なるケースがあることを考えると、それでも格差はなくならないという見方もできる。
むしろ格差を広げる動きの方が良いと私は考えている。広げるといっても上下に引っ張るのではなく、上方向だけに引っ張るのだ。18歳というタイムリミットと才能により、一人ひとりに学歴の理論値がそれぞれ定められているが、潜在的な能力を限界まで引き出し、理論値まで到達するのが理想と言える。現状の問題としては、理論値まで到達できない人が多数存在することであり、その教育格差をなくすために国や民間の組織が様々な取り組みを行っているが、これは実際のところは、上方向に引っ張り、格差を生み出す行為なのではないか。例えばある程度の才能を持っているにもかかわらず、田舎に住んでいたり十分な資金がなかったりすることから高度な教育を受けられない子供は、その子供にとって損であるし、社会にとっても損失だ。そのような子供に手当を施すことで、学歴の理論値まで到達しやすくなる。しかし一方で才能のない人に対して既存の学校教育以上の教育を施そうとしても、かえってマイナスになるのではないか。初学者に複雑な説明をしても効果がなく、むしろ混乱や苦手意識を芽生えさせてしまうといった悪影響があるように。つまり手当を施すほど、才能のある人は能力を開花させていくし、才能のない人やそういった手当を受け取ることすらできない環境にいる人、そもそもやる気のない人はそのままというわけだ。ただしこれは良いことであり、潜在能力を引き出し、理論値まで到達する人が増えれば増えるほど、国全体として豊かになると考えられる。
こうした絶望的な格差の中で個人ができるのは、年齢の低いうちに様々なものに触れ、興味を持てるものを探すことなのではなかろうか。なるべく早く興味を持ち目標を定めることで、18歳というタイムリミットまでの猶予を確保できて学歴の理論値が高くなるし、行くべき大学が定まる場合、不毛な学歴至上主義に巻き込まれる心配がなくなる。そして興味を持てるものを探すには、スマホばかり見ていては駄目だ。スマホはドーパミンを放出させるためだけの、ユーザーの(脳の)関心のある害悪コンテンツで溢れているからだ。私見では、興味とは無関心の中にあるものであり、本やテレビで無関心なものに多く触れることが重要となる。その際に、興味の種を芽吹かせる親の働きかけがあるとより良い。興味という軸を作って生産的な人生を送りたいところだが、これも結局は家庭次第、運次第なのだ。