インターネット上では日々、ネットミームが生まれては消えてを繰り返している。バズりそうなフレーズや画像を誰かが発信し、それを不特定多数の人が使用、改変することで広く認知されてネットミームと化す。バズ目的かどうかに関わらずネットミームの使用は当たり前に行われていて、Twitterのおすすめ欄が大喜利会場となっていることも多い。私も学生の頃はネットミームを楽しんでいたが、いつ頃からだろうか、使いたくないと思うようになっていた。なぜこのような変化が起きたのだろうか。なおここでいうネットミームとは、インターネット上で(短期的、長期的問わず)よく用いられるネタや画像、定型文を指すことにする。
理由1:面白さを感じられない
ネットミームを使いたくないと思う理由の1つは、面白さを感じられなくなったからだ。ネットでは(悪い意味ではなく)クレイジーな言動をする人が人気になる傾向が強いのに対し、リアルでは真人間であることを求められることからも分かるように、ネットとリアルとではノリが異なる。ネットミームはネットにおける身内ネタであり、SNSを閉じた5秒後に再度開いていたほどにネットの住人だった頃には面白さを感じていたが、長い時間をリアルで過ごすようになりSNSにほとんど触れなくなった今では面白さを全く感じられないのだ。自分が楽しめないネタを使いたくないのは自然なことだろう。
理由2:「死人」になりたくない
ネットミームを使いたくないと思うもう1つの理由は、ネットミームを多用することで自分が自分ではなくなってしまうことを恐れているからだ。ここではリアルでの発言やネットでの発信を含めて「言葉」とするが、言葉はアイデンティティであり自分そのものだと考えられる。例えば言葉の連続である文章には、特定の文体やフレーズ、言い回しなど、書いた本人の個性が現れることがあるし、気性が荒い人は暴言が多いように、人間性と言葉遣いは少なからずリンクしているだろう。つまり自分から発せられた言葉は自らを反映した「自分の言葉」であり、逆説的だがそれこそが自分を自分たらしめている要素の1つだ。
しかしネットミームを多用するとどうなるだろうか。ネットミームは「他者の言葉」であり「自分の言葉」ではない。オリジナルから改変したネットミームであってもそれは借り物の言葉に過ぎず、「自分の言葉」とは言えないだろう。つまりネットミームを多用して「自分の言葉」を失うことで、自分のアイデンティティを1つ失うことになる。しかも言葉は、社会的ステータスとは異なる、人間として根源的なアイデンティティの1つなのではなかろうか。
言葉というアイデンティティを失い「他者の言葉」を多用するということは自分の意思を持たない、自分の意思を発言しないということであり、それはもはや死人と同じだろう。言葉や意思がなければ、それは存在していないのと同義だ。現代社会において「生」を定義するものの1つは「自分の言葉」を持つことだと考えるが故に、「他者の言葉」であるネットミームを使いたくないのだ。