スマホゲームへの課金は金の無駄なのか

スマートフォンが一般に普及し始めてから、スマホゲームの存在感は徐々に大きくなって人々に広く浸透し、現在では50%の人がスマホゲームを毎日プレイしているという調査結果もあるほどとなった。多くのスマホゲームは基本プレイ無料であり、課金することで他プレイヤーよりガチャを多く回したり、キャラクターをより強くしたりできるシステムを採用しているのだが、この課金システムがしばしば話題になることがある。子どもが親のクレジットカードで数百万円もの課金を行っただとか、課金のしすぎで借金を背負うことになったなどというものだ。こういった話題のたびに、「ゲームに課金とか金の無駄じゃん」「そのゲームがサービス終了したら何も残らない」「ゲームに課金するより、他のことにお金を使った方が有意義」という意見を耳にするが、本当にそうなのだろうか。

反論:人生は無駄でできている

人生で無駄ではないこととは何だろうか。人間として「無駄のない」生き方というのは、勉強して、社会で働き、子どもを育て、そして死ぬことであり、これらに関連する行為が無駄ではないことに、関連しない行為が無駄なことに分類される。つまりゲームをすること(課金すること)だけでなく、SNSを見たり、ウキウキで購入した服を着て遊びに出掛けたり、高級料理を食べたりすることはすべて無駄だ。しかしこのような無駄を省いた人生、義務だけをこなす人生を楽しいと思えるだろうか。無駄な行為をするからこそ、画一的ではない、義務から脱した個人の人生を歩むことができ、人生に色が付く。つまり充実した人生とは「無駄」で構成されている。そして人生を彩ってくれる無駄な行為の内容は、個人によって異なるものだ。高級料理を食べたり可愛い服を着たりすることで彩りを感じる人もいれば、ゲームで彩りを感じる人もいる。スマホゲームに課金をする人は、高級料理を食べるより、ゲームに時間とお金を投じるほうが楽しいというだけの話なのだ。

興味が価値を見出す

人の興味は、同心円状に層を成していると考えられる。中心に近いほど興味が強く、中心から離れるほど興味が薄い。スマホゲームに課金をする人は、中心にゲーム、少し外側にSNSだったり少し美味しいものを食べることがあり、最も外側にはブランド物や高級料理がある。さらにこの同心円は中心からの距離だけが意味を持つのではなく、中心からの方向も意味を持っている。例えば、同様にブランド物にも高級料理にも興味がない人の場合、前者にお金をかけることは理解し難い一方で、後者であれば理解自体はできるというスタンスのとき、両者とも中心からの距離は同じだが、位置する方向は正反対であるということになる。

そしてこの「興味の同心円」の外側かつ理解しがたい方向に位置づけられるものほど、その人にとって低俗で無価値なように見えやすくなるのだ。先の例で言えば、彼らにとってはブランド物が低俗で無価値なように見える。そもそもスマホゲームもブランド物も高級料理も、人生において「無駄」であるという点から見れば等しく無価値なのだが、ある人はスマホゲームに価値を見出し、またある人はブランド物に価値を見出す。この違いは、個人の「興味の同心円」によるものでしかないのだ。

興味とは万物に対する個人の認識やスタンスであり、それが万物の価値を定める。「興味の同心円」は個人によって全く異なるのが普通だが、差異が大きいほど価値観が合わず、特に方向が違う場合は別の世界の人間だと思ったほうが良い。つまり「スマホゲームに課金するなんて理解できない」と思う人がそれを理解できないのは当然であり、海外在住の人に日本独自の価値観やルールを押し付けようとする人はいないように、理解する必要もされる必要もないのだ。

無関心と嘲笑

突然だが、漫画ワンピースに登場するキリンガム聖を知っているだろうか。単行本勢やアニメ勢にとっては若干のネタバレになってしまうが、彼は天竜人という傍若無人な存在でありながら、「人の“好き”を笑うもんじゃねェ」という良識ある道徳に満ちた発言をした人物だ。この発言は人生において非常に重要な心構えであると私は考えていて、自分にとって馬鹿らしく無価値なように見える他者の趣味は、単に自分の興味がないからそう見えるだけであり、他者にとってはのめり込む価値のある趣味なのだ。しかし特にインターネットは、人の趣味を馬鹿にするような発言で溢れている。天竜人以下の道徳しか持ち合わせていないというのは人にあるまじき事態なので、一刻も早く人になる努力をした方が良いだろう。