なろう系の駄作小説はどんな層が読んでいるのか

『小説家になろう』という小説投稿サイトには、主人公が強いスキルを手に入れて無双する、ついでにハーレムを作るというテンプレートに沿った作品が多く投稿されている。そのためこういった作品を、『小説家になろう』に投稿されているかどうかにかかわらず、「なろう系」と総称するようになった。有名どころで言うと『Re:ゼロから始める異世界生活(リゼロ)』『転生したらスライムだった件(転スラ)』『無職転生 ~異世界行ったら本気だす』などがある。こういった有名作品は元々の完成度の高さに加え、書籍化に伴って出版社の手が入っているため、作品としての出来が非常に高い。しかし一方でその陰には、大衆に知られていない駄作が大量にあり、なろう系という言葉に駄作という意味を含ませている人もいるほどだ。何がなろう系を駄作たらしめているのだろうか。

問題点:全てのキャラクターが生きていない

物語はキャラクターが動かしているため、キャラクターの魅力は作品の出来に関わってくる。しかしなろう系のキャラクターには人格が備わっていなかったり、共感できる行動原理や思想を持っていなかったりするため、一切の魅力がない。

まずは主人公を見ていこう。ここではなろう系として1つの定番である追放モノを例にする。追放モノとは、主人公が数年来の仲間から無能扱いされて追放されるが、実は最強であり、新天地で新しい仲間(女)と共に楽しく過ごすという導入で始まる作品群のことだ。付け加えると、主人公を追放した元仲間は没落していくのがお決まりとなっている。作者の意図としては、酷い仲間と可哀想な主人公という構図を作り、主人公に感情移入させたいのだろうが、残念ながらそうはならない。というのも主人公側に問題があり、追放されるのは自業自得だと感じてしまうことが多いからだ。よくあるのは、主人公は自分の持っているスキルを仲間に説明していないせいで、仲間から実力を低く見積もられて追放される。例えば、仲間が魔物を簡単に倒せているのは、実は主人公が強化魔法をかけているからなのだが、それを仲間に説明していない、もしくは説明した気になっている。まともなコミュニケーション能力があれば、「強化魔法をかけるぞ」という一言があるはずだろう。その癖、心のなかで「俺のおかげでこれまで成果を上げてきたのに」とマウントを取っていて、主人公が単なる極度のコミュ障で嫌なタイプの人間、集団からはじき出されて当然の人間だとしか映らないのだ。

主人公以外のキャラクターに関しては、完全に作者の都合で動かされていて、人格を搭載していない。先の例で言えば、数年間も仲間として同じチームで活動をしているのなら、各々のスキルに関して話し合うシーンが過去にあったはずであり、数年経ってからいきなり主人公に対して「お前何もしてなくね」とはならない。ではなぜ急にそのような展開になるのかというと、作者がキャラクターのこれまでの人生を全く考えていないからだ。追放モノを書きたいから、「今創った」仲間キャラクターに酷いことを言わせようとしている。しかし仲間キャラクターにもこれまでの人生があり、主人公との関係値があるはずだ。それを無視してしまうが故に、数年来の付き合いであるはずの主人公からスキルのことを聞いていなかったり、唐突に追放したりというあり得ない展開になる。言い換えれば、登場キャラクター全員がアホに成り下がる。そのため、作者が酷い人に見せようとしている元仲間のことを単なる道化としか思えず、主人公のことを可哀想と思えないと同時に、元仲間が酷い目にあってもなんとも思わない。キャラクターが悲惨な末路を辿って読者がスカッとするのは、そのキャラクターに対してヘイトが溜まっているからであり、末路の悲惨さとヘイトの量とのバランスが重要となるのだが、なろう系の展開は単なる茶番にしか見えず、カタルシスが全く無い。キャラクターは特定のシーンを作るための舞台装置ではなく、これまで人生を歩んできた人間であるということを意識しない限り、現実味のある対人関係にはならない。

問題点:チート能力

ファンタジーにおける特殊能力は、その作品を特徴づけ、面白くする要素の1つだ。その能力を用いて、主人公が苦難をどのように超えていくのかというところに面白さがある。しかしなろう系では、主人公は強すぎるチート能力をはじめから持っていることが多い。最強の魔術、最強の治癒術、何でもできる全能能力。どんな苦難があっても主人公が1秒で対処できるため、苦難を超えた先に勝利があるという展開にならず、盛り上がりに欠ける。加えて多くのなろう系では、ステータスオープンというシステムを採用していて、オープンすることで自分のステータスや所持スキルを全て知ることができるのも問題だ。チート能力だとしても、それを完全に理解・習得するためには試行錯誤が必要なのであれば良いが、ステータス画面にあるボタン1つで何でもできるようになってしまうため、ドラマ性に欠ける。主人公がなぜそのようなチート能力を持っていて、なぜはじめからうまく扱えるのかに対する納得できる説明もないため、周りからもてはやされる主人公を作者が描きたいがためのご都合主義だとしか思えず、主人公に共感したり、主人公を応援したりすることがないのだ。

問題点:数字の使いすぎ

なろう系では、特に強さを数字で表そうとすることが多い。弱いときの主人公の攻撃力は10、覚醒した後は10000で1000倍になった、というように。しかし強さを数字だけで提示されても、具体的にどれほどの強さなのかをイメージすることはできない。10だから何ができないのか、10000だから誰に勝てるのか。例えば『リゼロ』に出てくるラインハルトは最強キャラなのだが、彼の初登場シーンでは、その場に登場しただけで、主人公からカツアゲしようとしていたチンピラたちが一目散に逃げていった。これにより、ラインハルトはかなり強くて有名人であることが分かる。小説ではないが、皆が知っているであろう『ワンピース』で言えば、1話でルフィが近海の主を一撃で倒すシーンによって、無力だった幼少期と比べて圧倒的に成長していることが分かる。「1000倍強くなった」などと数字を使って描写した気になっていても、読者には何も伝わっていない。ゲームであれば数字で伝えられるが、小説であれば数字に頼りきるべきではないだろう。

問題点:作者の能力不足

ここで言いたいのは物語の構成力不足ではなく、人間力や人生経験といった、社会を形成して生きてきたヒトとしての能力の不足だ。特に対人コミュニケーションにおいて、なろう系の描写は下手だ。まず、登場する全ての女キャラクターが、無償で主人公のことを好きになるというハーレム展開は違和感しかない。出会って即好きになるだとか、好きになってすぐ好意を大っぴらにアピールするだとかが普通はあり得ないというのは、恋愛経験がないとしても、人間社会で暮らしていれば分かることだ。ハーレム展開を全否定するわけではないが、そこに至るまでの過程を飛ばし過ぎているのが問題と言える。他にも、この場面でそのセリフはあり得ないということが多々ある。例えば、自分を助けたせいで目の前で死にかけている人がいるとして、普通は「大丈夫ですか!」「誰か救急車を呼んで!」などと呼びかけるはずだ。しかしあるなろう系では、ここで「ありがとうございます!」と連呼しているのだ。助けてくれた人が瀕死ではなく軽傷であればさほど違和感はないが、死にかけている人に対してお礼を連呼する人はいない。また多くのなろう系作品には、主人公の友達枠のキャラクターが存在しない。主人公を全肯定するイエスマンは大量にいるのだが、主人公と対等な立場であるキャラクターがいないのだ。あくまで主人公が一番上の立場であり、周りのキャラクターは主人公を崇め奉る係となっている。コミュニケーションの経験がないのか、はたまた想像力がないのかは分からないが、なろう系はコミュニケーション描写が歪であり、違和感しかないのだ。

これらから、なろう系作者の人間力は低いと考えられる。でなければ、このように歪な描写にならない。作者が描けるのは自分の能力以下のことだけであり、自分の能力を超えた描写をすることはできない。社会性のない人が、他者への思いやりを描くことはできないし、会話をしたことがない人が自然な会話シーンを描くのは難しいだろう。また逆説的ではあるが、人間力が高ければ、そもそもなろう系というテンプレートに沿った物語を書かない。テンプレートを全てそのまま使うのは、自分で思考する能力に乏しいからであり、だからこそ歪な描写に違和感を感じることもない。なろう系が駄作なのは物語の構成云々の話ではなく、作者の人間力が低く、キャラクターが生きた人間になっていないからだ。

疑問:テンプレなろう系はどんな層が読むのか

なろう系にはここまで述べてきたものを含む問題点が無数にあり、要するに駄作だ。作品に面白さを感じる理由の1つは、作品内で適度に蓄積されたストレスが発散されるからだが、なろう系では主人公が最強なのでストレスが溜まらないし、キャラクターに人格が搭載されていないせいで、ストレスを溜めるためであろう描写も意味を成していない。何の波乱もない、自慢だけで構成されたサクセスストーリーでしかないのだ。しかしそれでもなろう系には一定の需要があり、コミカライズされている作品も存在する。世間では、人生の負け組が一発逆転を夢見てなろう系を読んでいる、という言説がまことしやかに囁かれているが、私はそうは思わない。特定の特徴を持つ人が読んでいるというより、コンテンツを消費している感覚を簡単に得られるから読んでいる人が多いと考える。現代人はコンテンツを大量消費しているが、コンテンツの中身に注目している人は殆どいない。昨日見た大量のショート動画の内容を全く覚えていないように、エンタメを楽しむことではなく、大量消費することが目的となってしまっている。なろう系に話を戻すと、なろう系は世界観が全て既存のテンプレートに沿っているため、作品を跨ぐごとに新しい世界観をインストールする必要がない。さらにキャラクター同士の複雑な心理描写や難しいストーリー展開もないため、頭の中を空っぽにして読み進めることができる。内容もただ単に主人公が無双するだけなので、理解しようとする必要もない。まるでショート動画を見ているときの君達のような状態で読み進めることができ、読了後はコンテンツを消費した感だけを得ることができる。その虚無こそが現代人の脳が求めていることなのだ。消費するために消費し、時間と引き換えに虚無を得る虚しさに気づかない限り、駄作であっても消費し続けるのだろう。